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沖縄歴史コラム~沖縄対策本部メルマガ、より~

 今回も購読しているメルマガより転載させて頂きました。

 <以下転載>


 (1)「琉球処分と廃藩置県」

 学校の教科書では明治時代に琉球王国が廃止され沖縄県が設置された事を「琉球処分」と称しています。それはあたかも日本政府が琉球王国の住民を弾圧して国を滅ぼしたかのような印象を与えています。
琉球独立派や米軍基地反対運動をしている人たちはこのことをもって、「沖縄の歴史は日本から差別され続けた歴史」だと主張しています。しかし、「琉球処分」といっても実際には日本政府や派遣された警察官によって殺害された人は一人も存在しません。それは、戊辰戦争や西南の役で1万人以上の死者を出した明治維新と比べても非常に平和的な国家統一事業だったのです。

 松田道之は、沖縄県を設置する任務で「琉球処分官」として沖縄に派遣されました。彼は密偵を使って琉球の庶民の実情を把握していました。その密偵からの報告によると「士族の4割は内地の新政を望んでいるが口にするのを恐れている」「平民は琉球藩の過酷な政治を恨み日本の直轄を望んでいる」ということでした。
実際、琉球処分前の沖縄では寺小屋もなく農民は読み書きを習うこともできず、農奴のような生活をしていました。それが、沖縄県の設置以降は農民も学校に通えるようになり、沖縄でも身分制度が廃止され誰でも努力次第で出世できる「四民平等」の社会になったのです。

 結局、「琉球処分」の「処分」とは、既得権益を守るために清国への冊封をやめようとせず、日本政府に従わない琉球王府の親清派の士族への処分であり、人口の大多数である庶民にとっては救済であり解放であったのです。

 現在、首里城祭やなどでは華やかな王朝文化を再現していますが、琉球国の庶民全員がこのような華やかな文化を満喫していたわけではありません。首里城の華やかさは琉球王府の貴族だけであり庶民には全く関係のない世界だったのです。逆に庶民はこの朝廷が冊封や朝貢で華やかな儀式を行うために大きな税負担を強いられていたのです。


 (2)「ペリーと沖縄と沖縄戦」

 <画像:ペリーの航路>
 http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/b7/e07929bf17844e0dfaf57cfea8797e2a.png

 嘉永6年(1853年)7月8日、アメリカの使節ペリーが黒船4隻を率いて江戸湾の入り口浦賀沖に現れました。ペリーの艦船は、これまでのイギリスやロシアの帆船とは異なり、黒塗りの船体に外輪と煙を出す煙突があり、それに驚いた日本人が「黒船」という名称をつけたのです。
一般的にはこれが明治維新のきっかけになったと言われています。教科書では黒船が突然、浦賀に現れるのでペリーは太平洋航路をつかって日本にやってきたようなイメージがあります。
 実は、ペリーは太平洋を渡ってきたのではなく、「大西洋航路」をとり、アフリカ南端の喜望峰を回って、インド洋に出て、セイロン、シンガポール、香港を経由して日本に来ました。また、ペリーは浦賀に突然姿を現したわけではなく、その前に日本開港の足がかりとして薩摩藩が管理していた琉球に寄っています。1853年5月26日、ペリーは4隻の蒸気軍艦を率いて那覇に入港しました。
6月9日に那覇を出航するのですが、このときは江戸に向かうのではなく小笠原を調査し父島に貯炭地を建設したり牛、羊、山羊などを繁殖のために陸揚げしています。将来の補給基地にするためです。6月23日には一旦琉球に戻り7月2日に江戸に向かって那覇を出航します。そして、7月8日浦賀に姿を現し学校の教科書で教えられている幕末が始まるのです。7月14日に久里浜で国書伝達式をして香港に戻るのですが、その途中にも琉球に寄っています。
そこでペリーは、「聖現寺の有料賃借」「石炭貯蔵庫の建設」「密偵の禁止」「市場での購入」を要求し強引に受け入れさせています。 このようにペリーは日本開国の拠点として沖縄を活用していたのです。
 1854年1月14日、ペリーは日本に開国を迫るため香港を出発し琉球に向かいました。24日に全艦那覇に集結し2月7日に7隻で江戸に向かって出航しました。出発するにあたり、海軍長官に対して次のように上申しています。
「日本政府が合衆国の要求に応じないか、または合衆国商船及び捕鯨に避泊する湾港を指定することを拒絶するならば、本職は合衆国市民の蒙った侮辱及び損害に対する補償として日本帝国の附庸国である琉球島を合衆国の旗の監視下に置き、政府が本職の行動を承認するかどうを決定するまで、上述の制限内で租借する決心である。」
 つまり、ペリーは江戸幕府が開港しなければ、琉球を米国の植民地にする決意だったということです。
 第二次世界大戦で米国は沖縄上陸戦を行い、本土上陸作成の出撃基地として活用する予定でした。米軍は本土上陸作戦を実施しませんでしたが、奇しくもペリーが植民地化を考えていた沖縄と小笠原をサンフランシスコ講和条約にて実質的な植民地としました。第二次大戦時の太平洋艦隊司令官ニミッツ提督は、米海軍ペリー提督の後輩にあたります。
米国の立場から見たら、ペリーの仕事の続きをニミッツ提督が果たしたといえるのかもしれません。アヘン戦争依頼、沖縄は常に他国からみたら日本侵略の入口であり、私達日本国民にとっては、日本防衛の砦であり、今現在もそれは全く変わらないということです。

 
 (3)「ニミッツ布告」と「琉球列島米国軍政府」

 1945年(昭和20年)8月14日、日本政府はポツダム宣言の受諾を連合国側に通告、翌8月15日に昭和天皇の玉音放送によりその決断を天皇陛下のお言葉により国民に伝えられました。その事実はラジオ放送、またはそれを報じる新聞により大多数の国民が日本が降伏の決断を下した事を知ることになったのです。
 ところが、同じ日の沖縄では、誰も玉音放送を聞くことはできませんでした。ラジオの電波が届きませんし、既に米軍の支配下にあったからです。その日の沖縄では、「琉球列島米国軍政府」の招集により、崩壊した行政機関の編成が始まっていました。各地区収容所から124名の代表が石川市に集まって、中央機関の組織を立ち上げ始めていました。8月20日には15名の委員が選出され「沖縄諮問委員会」が発足しました。
これは、沖縄戦による沖縄県庁解体後初めての沖縄本島における行政機構でした。翌1946年には「沖縄民政府」1950年には「沖縄群島政府」1952年には「琉球政府」と形を変えていきました。それらの行政組織の上には米軍がありました。終戦直後は「琉球列島米国軍政府」、1950年12月15日には「琉球列島米国民政府」と名称を変え、1972年5月15日の沖縄返還まで存続しました。このように終戦後の沖縄は捕虜収容所からの出発し、米軍支配のなかで行政組織をつくる形で復興していきました。
 では、この時の「琉球列島米国軍政府」はいつ発足したのでしょうか?それは、1945年4月1日、米軍の沖縄上陸の日であり地上戦が本格化する前です。その法的根拠となるのが「米国海軍軍政府布告第1号」です。太平洋艦隊司令長官ニミッツ海軍元帥の名で布告されたので通称「ニミッツ布告」と呼ばれています。この布告は、日本政府のすべての行使権を停止し、米国海軍元帥ニミッツ権能に帰属すると宣言したものです。この布告は1966年まで存続していました。
終戦後の日本本土の米軍統治は、ポツダム宣言を受諾した日本政府がGHQ配下に置かれましたが、沖縄は日本がポツダム宣言を受諾する前に米国軍政府下におかれていたのです。
 この布告は国際法上問題であることが見えてきますが、更にこの布告から沖縄上陸時の米軍の方針が見えてきます。まず、沖縄県民を日本人ではなく別民族だとみていた事。もう一つは、沖縄県民を本土上陸作戦遂行のための基地建設や運営の労働力として利用することを考えていたということです。つまり、沖縄はサイパンなどと同じ日本軍の占領地であり、沖縄県民を解放し米軍政府の施政権下に置き、本土上陸作戦の戦力にしようとしていたのです。それから70年近く経過しますが、その影響は強く残っています。
終戦直後、米軍は沖縄のマスコミを宣伝機関として利用し、米軍の被害者ではなく日本軍の被害者であるという意識を沖縄県民にすり込んだのですが、それは現在でも、沖教組の教育に引き継がれています。また、中国共産党はその考え方利用して引き継ぎ中国国内で「琉球人民は日本の虐待的植民地支配からの独立を求めて日米両政府と休むことなく戦っている」と報道し宣伝工作を行っています。これは、沖縄侵略の意図が感じられ、強い警戒が必要です。


 (4)「沖縄県祖国復帰協議会」と「70年安保」

 1960年4月28日、米軍統治下にあった沖縄で祖国日本への復帰を求めて全県的な統一組織として「沖縄県祖国復帰協議会」が設立されました。当時は省略して「復帰協(ふっききょう)」と呼ばれました。結成大会においては日本政府、米国政府及び国連に「沖縄返還についての要請決議」を行っています。それから12年間もの運動を経て1972年5月15日、沖縄は晴れて祖国日本への復帰を果たしました。「復帰協」が解散したのは、それから5年後の1977年5月15日です。その後5年間はどのような運動をしていたのでしょうか?
 復帰協は、1973年には、「自衛の沖縄配備に断固反対し、即時撤回を要求する決議」を行っています。1975年には、「自衛官の琉大入学に反対する決議」というものまで行っています。また、1974年には、復帰記念行事である沖縄海洋博覧会の開催にまで反対していました。沖縄が日本に復帰したら自衛隊が配備されることは当たり前の事です。それでは、何故復帰協は自衛隊反対運動を行ったのでしょうか?1960年からの復帰協の運動の経緯を確認してみたいと思います。
 復帰協が結成された1960年に行った最大の運動は日の丸掲揚運動です。当時の沖縄は米国施政権下のため自由に日の丸を掲揚することが許されていませんでした。それに逆らって1961年のお正月には日の丸を掲揚する運動をしたのです。それから復帰協毎年4月28日に大会を開き、その年の運動方針、運動目標、スローガンを発表していきます。当初の目標はサンフランシスコ講和条約の第3条(沖縄が米国の施政権になることが決まった条文)の撤廃だけでしたが、1967年の10月に大きく方針転換します。
12日に臨時総会を開き「即時無条件返還要求」行動を行う事を決定します。
 その結果、10月21日にはデモ行進を実施、11月2日には「即時無条件返還要求県民総決起大会」を開催します。その方針は日米安保条約の継続協議のために11月12日に訪米予定の佐藤栄作総理大臣に向けられたものだったのです。つまり、復帰協の求める沖縄復帰は「何の条件もない復帰」、「米軍基地を全て撤去する復帰」を望んでいるということです。
 日米安保のある日本に復帰すると、「本土並み」に日米安保が沖縄に適用され基地が残る復帰になるため断固阻止をするというのです。この時から「復帰協」の運動の実態は安保闘争となっていったのです。そして、1971年は、5月19日にゼネラルストライキを行い「沖縄返還協定粉砕」というスローガンが使われるようになりました。「まず復帰をしてから米軍基地を減らしていく」という方法もあるのですが、復帰協は「米軍基地が残るのなら復帰しない。」という考え方を選び、最後には激しい「復帰反対運動」を行っていたのです。
しかし、6月17日には日米で沖縄返還協定が調印され11月17日には自民党の強行採決により協定が批准されました
 これが、沖縄祖国復帰の歴史の最大の矛盾点であり、重大な事実、「沖縄の祖国復帰を実現させたのは、『沖縄県祖国復帰協議会』ではない。」ということです。
(仲村覚)

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沖縄県祖国復帰協議会 第14回定期総会 資料より抜粋
復帰運動の目標
(1969年3月22日)
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【復帰運動の目標】

(基本目標)

 1.対日「平和」条約第三条の撤廃

 アメリカのお沖繩占領支配は、日本の真の独立と平和を犯すものであり、その統治の根拠としている対日平和条約第三条は民族の自決と主権平等の原則から、政界人権宣言及び国連憲章に背反する無効なものである。従って、国際場裡と国際法に反する、不法不当な条約第三条の撤廃を期す。

 2.日本国憲法の適用

 日本国民である百万沖縄県民は、当然日本国憲法の適用をうけ、憲法によって日本国民といsての諸権利が保証されなければならない。憲法の完全適用は祖国復帰の実現にとって重要な課題であるから、日本政府にその実施を強く迫る。

 3.軍事基地撤去

 アメリカの沖繩支配の主目的は沖縄基地の排他的自由使用にある。これらの基地は核武装され、共産圏諸国に攻撃目標は向けられ、とりわけ中国封じ込め、ベトナム侵略戦争を中心としてアジア諸国に対する侵略と攻撃の基地である。又、米韓、米台、米比、アンザス各軍事条約の適用範囲に包含され、日米安保条約を含め、アメリカの極東軍事戦略の拠点をなし、アジア諸国のカイライ政権を更に県民にちする基地被害はこれまで生命財産を奪い、核の脅威は正に県民の声明を一瞬に奪い去らんとする状態である。
このようなアアジアを分断し、アジア人民を殺戮し、県民の声明を危機におとしいれているアメリカの沖繩基地は、平和憲法を守り、佐藤自由民主党政府の反動政策を粉砕する立場からも撤去を要求して戦わねばならない。

 4.日米安保条約の撤廃

 日米安保条約はその付属文書によって米による沖繩の軍事基地使用を認め、祖国を分断している。従って復帰を実現するためには、各基地自由使用を許している日米安保条約を廃棄しなければならない。アメリカの沖繩基地は日米安保条約の要石であり、軍事基地撤去の戦いは正に日米安保条約廃棄の戦いの重要な一貫として沖縄県民に課せられた重要な戦いである。
されに沖繩の早期返還を望む国民官女を利用して「核付き・自由使用」を認めての沖縄返還を目論む佐藤内閣の態度を見る時、日米安保常条約の改悪、平和憲法の改悪、そして再軍備、核武装と一連の反動制作を看破しなければならない。われわれは、憲法全文慣れ日に同第九条による我が国の安全と生存に関する規定に基づき戦争を否定して、日米安保条約廃棄を求めて戦い、即事務所行けん全面返還の戦いこそ沖縄県民のおかれた父馬から具体的な闘いとして受けとめ、国民的連帯の中で協力に闘う。

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■資料画像(旬報社「沖縄問題」より)

<画像1>
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/86/7988e100c34c5a5f5aeafc46390a41c4.png


<画像2>
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/1f/95a97cbf2dfd67ea53b21a196dc14107.jpg



<以上転載了>

 我々本州側の人間は沖縄に対して色んな意味で無頓着過ぎたのではないだろうか?
 今後も沖縄は祖国日本の安全保障に於いて重要な位置にあり続けるだろう。それ故に我々もまた沖縄に対してもっと気を配らなければならないのではないだろうか。
 まあ、遅きに失した感があるが「何もしないよりはマシ」と考えて行動していく他は無いだろう。
 沖縄が支那の手に堕ちれば次は九州、その次は四国そして近畿東海、あっという間に本州全域や北海道が支那共産党の軍門に下る。

近未来の悪夢

 結果この画が現実になると言う笑うに笑えない状況にも成り得るのだ!

 日本国民に告ぐ、沖縄を見捨てる事は日本の未来を見捨てる事と同義と知れ!!












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テーマ:軍事・安全保障・国防・戦争 - ジャンル:政治・経済

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龍剣 朱羅(タツルギ シュラ)

Author:龍剣 朱羅(タツルギ シュラ)
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 J-NSC(自民党ネットサポーターズクラブ)会員(№1007778)であります。
 ハードロック&へヴィメタルと格闘技とサッカーとモータースポーツとスーパーロボット大戦をこよなく愛する熱血バカ一代。
 現実では国賊売国奴と二次元では外なる神々、そしてその眷族と日夜戦い続けている男。ネトウヨ上等!  国士上等!!
 浦和レッズの熱狂的サポーター。
 熱烈なバルサニスタ。
 狂信的(?)ロマニスタ。
 軍用航空機(現用機中心)マニア。
 銃火器マニア。
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 本質は“漢(おとこ)気至上主義者”。
 でもって典型的“ドS”。

 自称“天然有害危険人物”。

 無論、反中、反朝、反米、反覇権主義であります!!(力説。)

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